リアルな「自給自足」とは? 日韓の異色作『裸の島』『ビー・デビル』

ライターズコラム

都市文明から隔絶した孤島に生きる夫婦を描いた『裸の島』

『リトル・フォレスト』という映画について語った際、あの作品を紹介する上で割合に使われているけれど、あえて使わなかった言葉があります。「自給自足」です(一カ所だけ「半ば自給自足」と書きました)。

テレビ番組でも時折、「自給自足」と銘打って、自然のなかで暮している人の生活ぶりが紹介されます。ただ、少し意地の悪い見方ですが、本当の意味で文明社会から隔絶して生きている人は、まず、いません。たいていは廃材などを利用していますし、自力で井戸を掘って水を汲んでいるわけではなさそう。病気になれば、お医者さんにもかかるでしょう。

『リトル・フォレスト』の作り手たちはそのあたりに自覚的で、田舎暮らしをはじめて数カ月後、ヒロインが農協のATMで貯金をおろし、残高がない事を知る場面があります。、文明の恵みを適宜利用しながら、なるべく自然と触れあいながら生きているという言い方が、より正確ではないでしょうか。

では、本当の意味で自給自足の生活とはどのようなものなのか。それを描いた映画を2本、紹介しましょう。

画像:新藤兼人『太陽とカチンコ』1960年、ダヴィッド社

まず、1960年製作の日本映画『裸の島』。瀬戸内海に浮かぶ、電気もガスも水道も通っていない、本当の意味で都市文明から隔絶した孤島が舞台です。

監督は新藤兼人。2012年に100歳で亡くなった、インディペンデント映画の巨匠です。松竹など映画会社を渡り歩いた後、1950年に近代映画協会を創立。1952年に制作した『原爆の子』でカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭平和賞、英国アカデミー賞国連平和賞を授賞。
その後もビキニ環礁沖で行われた水爆実験で日本漁船が被爆した実話を描いた『第五福竜丸』など、社会派作品や良心的な文芸映画を作り続けていましたが、やがて資金難に陥り、製作後の解散を前提として撮影したのが、この『裸の島』です。

瀬戸内海の小島でのオールロケ、キャストは、農業を営む夫婦を演じる乙羽信子と殿山泰司、それに子役が2人と、計4人のみ。撮影期間は1カ月で、制作費は500万円。
主演の乙羽信子は新藤監督の妻で、殿山泰司は近代映画協会の同人。いわば身内で固めた超低予算映画だったのですが、モスクワ国際映画祭やメルボルン国際映画祭でグランプリ受賞するなど国際的な高評価を得て、世界60ヵ国で上映されることに。近代映画協会も経営危機を乗り越えました(現在も存続しています)。

「原始的な人間の姿」を描こうとした新藤兼人監督

舞台となる島の空撮から映画は始まります。平地部のほとんどない、山がちな島の斜面を、びっしりと畑が覆っている。その畑を、駕籠や天秤桶を背負って歩いていく夫婦。
斜面の下から煽るように撮影された、あたかも空に向かって進んでいくような2人の後ろ姿にかぶせて、「耕して、天に至る」「乾いた土」「限られた土地」と字幕が入る。
その後、世界から見捨てられたような貧しい島で生きる農民一家の、過酷な生活が淡々と綴られます。台詞はいっさいありません。

夜明け前。小舟で近くの島に渡って水をもらい、桶に入れて運ぶ夫婦。水ですら、海を渡らなければ手に入らないのです。島に戻った夫婦は、天秤桶に移した貴重な水を肩にせおい、坂を登って畑にまく。この作業が延々と繰り返される。

ふと、妻が水桶の重みに耐えかねて倒れ、水をこぼしてしまう。すると夫は妻に歩み寄り、思い切り平手打ちを食わせる。妻は倒れ、しかし無言で起きあがり、再び、残った水を上の畑へと運んでいく。このシーンを新藤監督は、こうシナリオに書いています。
「干太(夫)の大きな掌がトヨ(妻)の頬に鳴る。トヨは大地に仰向きにひっくり返る。無表情にみつめている干太。ゆっくり起き上るトヨも無表情。鳴った一つの掌は、それが叱責であり、愛情なのである」

新藤監督は若い頃、生まれ故郷の広島県尾道市にある自転車商会に務めていました。商用で瀬戸内海をめぐり、「島のてっぺんまで段々畑を築いて見事に、耕して天に至っている」島の住民の暮らしをたびたび目にしたそうです。
「文明から遠く離れた環境では、人間は己の労働力だけを頼り、その自信だけで生きている。自然とたたかっている。原始的な人間の姿である」(新藤兼人『太陽とカチンコ 裸の島撮影日誌』)

そう。自然とはたたかう相手であって、楽しむものではないのです。そして、文明から遠く離れているがゆえに、一家を悲劇が襲います。母親にとってもっとも苦しみをもたらすであろう、その悲劇の末に、彼女は、こんな行動を取ります。

いつものように、水桶をかついで坂を登り、段々畑で作業を始めた夫婦。突然、妻は水桶を自らひっくり返す。

「狂気のようにトヨは、作物を抜きはじめる。乾いた大地に叩きつける。ふみにじる。(中略)突如、大地に体を叩きつけて泣く。のたうち廻るようにして泣く」(シナリオより)

この場面の、乙羽信子と殿山泰司の演技は、圧巻です。ただ表情だけで語る、一家を襲った悲劇への怒り、そして諦め……。
この経験を経て、夫婦はどうなったでしょうか。
どうもなりません。また、同じ農作業を繰り返していくだけです。
そうやって生きていくしか、ないからです。

男尊女卑が生まれるプロセスを描いた『ビー・デビル』

もう一つ。2010年に韓国で公開された映画『ビー・デビル』。この映画も絶海の孤島が舞台です。

韓国の権威ある映画祭である大鐘賞映画祭で新人監督賞(チャン・チョルス監督)を授賞。主演のソ・ヨンヒは、韓国映画評論家映画賞、大韓民国映画大賞、今年の映画賞等で主演女優賞を獲得しました。
海外でも高い評価を得た作品なのですが、公開に当たってはR-18指定(18歳未満観覧禁止)となりました。実際、ヘビーなバイオレンス描写が多く、その方面に耐性のない人には、お勧めできない作品であることは確かです。原題は『キム・ボンナム殺人事件の顛末』。

ヒロインのキム・ボンナムが住んでいる島は、一家4人が孤立している『裸の島』と違い、それなりの「社会」を形成しています。にもかかわらず/それゆえに、彼女の置かれた環境の過酷さは比較になりません。

数年前の洪水で大勢亡くなったため、10人足らずしか住民がいない島の産業はジャガイモ畑くらいのもの。しかも畑仕事をやっているのは、唯一の「若い女」であるボンナム1人。働き盛りの男性は、ボンナムの夫とその弟の2人ですが、彼らは1日中ぶらぶらしている。

他の住民は高齢者と幼児だけ。ですから、特に老女たちは、ボンナムをこき使う一方、2人の男たちをちやほやする。壊れた屋根の修繕など、いざという時の力仕事は、男たちにやってもらうしかないからです。

「物理的な腕力」を有する「男性」が特権的な地位を得ている物語設定は、なるほど、こうやって人類社会に男尊女卑という観念が生まれたのだな、と思わせます。そして、特権的な地位にある男たちの欲望のはけ口は、唯一の「若い女」であるボンナムに向けられ、彼女は日常的な暴力にさらされつづけているわけです。

耐えるべきか、耐えざるべきか。答えのない問い。

それでもボンナムは耐えます。『裸の島』のヒロイン同様に。
そんな彼女を、『裸の島』と同じ悲劇が襲う。しかも、その悲劇を起こしたのは、他ならぬボンナムの夫。
ボンナムは、夫を警察に告発しようとします。しかし、「貴重な労働力」を失いたくない老婆たちによって、夫の罪は隠蔽されてしまう。

ボンナムは、やはり『裸の島』のヒロイン同様、日常生活は維持するしかありません。翌日から、いつものようにジャガイモ畑に出て、悲劇の記憶をぬぐい去ろうとするように常日頃より労働に精を出すボンナム。

固い地面を耕しながら、ふとボンナムは、頭上の空に輝く太陽を見上げます。そのまま約30秒間、無言でまぶしい光りを凝視する。こう自問自答するように。

私にふりかかった数々の悲劇は、なにゆえなのか。
私は、この後も次々と襲ってくるであろう悲劇を、黙って甘受しなければならないのか。
女であるという、ただそれだけで……?

『裸の島』のクライマックスにおいて、ヒロインの「無言の対話」の相手は、常に一緒に働いている夫でした。夫が見せた悲しみに満ちた表情ゆえに、ヒロインは納得できぬまま、「日常」に戻るしかなかった。

『ビー・デビル』のキム・ボンナムには、そんな相手はいません。だから彼女は太陽という、決して答えを与えてくれない、地上に生きる者すべてに影響を与える存在に対して、台詞抜きの対話をかわし、そして、一つの答えを得る。
彼女は、農具である鎌を握りしめ、惨劇の幕が切って落とされるのです。

ひたすら耐えて、自分が属している今のシステムを肯定して生きていくべきか。
それとも、今のシステムを変えるべく、行動を起こすべきか。

1960年と2010年、半世紀の歳月を隔てて作られた日韓2つの映画がつきつける問題に、決定的な正解はないのでしょう。それでもなお私たちは、考え続けなければならないのだと思います。(敬称略)

アイキャッチ画像参照:新藤兼人『太陽とカチンコ』1960年、ダヴィッド社

福岡貴善

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最近、長野県松本市に引っ越してきたフリーランス・ライターです。20年以上の出版社勤務経験を活かし、大好きな映画、小説、音楽など様々なテーマに絡めて「農」を考...

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