誉田哲也『幸せの条件』が描く、就農を通した「自分探し」

ライターズコラム

長野県木島平村で取材した農業小説

ここ2回にわたって、ジブリアニメ『おもひでぽろぽろ』と、『のだめカンタービレ』の著者・二ノ宮知子のマンガ『GREEN』、いずれも女性が主人公の、農業をテーマとした作品を取り上げました。
そして、『GREEN』を紹介した回の最後にこう書きました。「農業女子が主役の、恋愛要素のないエンタメ作品の登場はあるのでしょうか」。上に挙げた2作品とも、ヒロインは、農村で働く青年に恋することがきっかけで、農業の世界に入っていくお話だったからです。

それはありました。誉田哲也の小説『幸せの条件』(中公文庫)です。誉田哲也といえば、ドラマ化もされ、竹内結子の当たり役となった警部補・姫川令子が主役のシリーズ『ストロベリーナイト』など、警察小説の書き手として有名です。他に、『疾風ガール』や『武士道シックスティーン』など、音楽や剣道に励む少女たちを描いた青春小説も多数著しており、本作は、その系譜の一つと位置づけることもできます。

かねてから農業やエネルギー問題に関心を抱いていた著者が、長野県木島平村に通い、自ら農作業を体験。取材を始めた頃に起こった、2011年の東日本大震災に、「今書かなければ」という強い思いで書き上げ、2012年に発表したのが、本作なのです。

町工場から派遣されたヒロイン

ヒロインは、下町の小さなガラス機器専門メーカー・片山製作所に勤務する24歳の瀬野梢恵。特技もやる気もなく、ただ伝票整理と在庫管理という雑用にあけくれる毎日。そんな彼女に、社長の片山からミッションが下ります。片山社長が発明したバイオエタノール精製装置を売り出すため、材料となるコメを提供してくれる農家を探せ、と。

バイオエタノールとは、コメ、サトウキビ、トウモロコシなど炭水化物を含む農産物を材料とする、いわゆるエチルアルコールのこと。石油などの化石燃料に代替する、再生可能エネルギーとして注目され、21世紀に入ってから世界各国で研究・開発が進んでいます。

母親が会長で、弟が専務という、典型的な家族経営のちっぽけな町工場主である、50歳の片山社長は、大風呂敷を広げたがる叩き上げ。減反政策により増加している休耕田を使って、バイオエタノールの原料となるコメを栽培することで、「危機的な状況にある」日本の農業を救い、「日本の抱えるエネルギー問題」を解決する! 鼻息荒く命じられるまま、エネルギー問題も農業問題もちんぷんかんぷんな梢恵は、長野県の農村に向かいます。

丹念な取材で描かれる現代農業のリアル

JR飯山駅に近い穂高村(架空の地名)に辿り着いた梢恵。片山社長の指示どおり、まずは地元農協を訊ねますが、社長から聞かされていた話と違ってまるで非協力的。仕方なく、飛び込みで農家を回ってみても、邪険にあしらわれるばかり。途方に暮れた梢恵でしたが、親切なホテル経営者の紹介で、農業法人「あぐもぐ」の社長・安岡茂樹と出会うことに。

「あぐもぐ」の安岡社長は、片山製作所社長と同じ50歳。働き手は、奥さんと、たまに手伝う16歳の娘、そして3人の社員。こちらも家族経営そのもの。長野名物の「ニラせんべい」を「チヂミみたい」と言われると怒り出す、ある種の典型的な日本のオヤジです。
何より、仕入れた知識でもってお説教するのが大好きなところも似ている。たとえば梢恵が、日本の食糧自給率の低さを口にすると、「そんなのはまやかしだ」と、こんな調子で演説を始めるのです。

「日本の国内農業生産額はおよそ八兆円ある。二〇〇〇年代に入って、大体この辺りを推移している。これは一位の中国、二位のアメリカ、三位がインド、四位のブラジルに次いで、世界第五位だ。アメリカの国内農業生産額が約十七億円。日本はその四十七パーセントということになるが、そもそも日本の人口は一億二千万強で、アメリカの四割しかない。この四十パーセントの人口で、四十七パーセントの農業生産額を叩き出しているんだ。人口比率でいったらアメリカ以上といっていい。どうだ、大した農業大国だとは思わないか」

夕食の席でビールのグラス片手に、これだけ具体的な統計数字をまくしたてるのですから、たいしたものです。そんな安岡社長から「ひと夏うちで働けよ。体で農業覚えて、その上でまだバイオエタノールやりたいっていうんだったら、そのときまた改めて相談に乗ってやる」と提案され、結果的に、ひと夏どころか、冬の雪かきから翌春の収穫まで、農作業を体験する事になります。

誉田さんは、「僕自身が取材で知ったことや驚きなどはそのまま、梢恵に表現してもらいました」と語っていますが(『ほんのひきだし』)、確かに、安岡社長の口から語られる、細かなコスト計算も含むリアルな現代農業経営や、実際に行われる労働について、読者はヒロイン梢恵を通して体験する事になります。

そして、「四十パーセントと低い食糧自給率、食糧の輸入が完全にストップしたら、日本国民の何割かは餓死するかもしれないという恐怖感」を抱きつつ、「だからといって自分から農業をやるかというと、それは話が別」「キツいし、汚いし、儲からない――農業には正直、そういうイメージ」を持っていた梢恵は、ビジネスとして繊細な経営感覚を要求される現代農業のリアルに接することで、「社会人」としての自分のあり方を発見していくわけです。

ヒロインと2人のオヤジとの「師弟関係」

この小説には「恋愛要素」は、ほとんどありません。梢恵が東京で付き合っていたボーイフレンドとの(惰性に近い)関係性や、「あぐもぐ」社員と地元スナック店員との妊娠騒ぎなどが盛りこまれていますが、作品自体に決定的な影響はない。鮮やかに描かれているのは、ヒロイン梢恵と2人のオヤジ、安岡社長と片山社長との「師弟関係」です。

東京にいた頃の梢恵は、片山社長の「演説」は、右から左へと聞き流し、正直うんざりしていました。ところが彼女は、「あぐもぐ」に出向するにあたり、片山社長に「お前の代わりくらい、いくらでもいる」と言われて大ショック。片山社長からいったん人格を完全否定されたことで、彼女は、もう1人の演説オヤジ・安岡の言葉に耳を傾けるようになる。

自己否定を通過した上で、外部からの教えを受け入れられるようになる。このプロセスは、悪用されれば「洗脳」にもなりえますが、鼻っ柱の強い主人公がその鼻をへし折られ自分を見つめなおして修行する、『宮本武蔵』のような剣豪小説や『スラムダンク』などのスポ根ものに見られる、正統的エンターテインメントの手法です。いわばこの小説は、モノ作りとコメ作りに携わる、2人の年長者の導きによって、若者が自分の役割を発見するという、古典的な教養小説(ビルドゥングスロマン)でもあるわけです。

「父と娘」を柱とした擬似家族の物語

『おもひでぽろぽろ』や『GREEN』の枠組みが男女の恋愛だとすれば、『幸せの条件』は、父と娘のお話でもあります。「あぐもぐ」の安岡社長には16歳の娘がいます。よほど忙しい時には農作業を手伝ったりしますが、ふだんは父親の演説なんぞ聞きもせず、韓流ブームにハマっている、今どきの女の子。梢恵という、自分の指導に素直に従ってくれる若い女性の存在は、安岡社長にとっては、いわば「理想の娘」でもある。

安岡の妻・君江が、悩める社員にこんな事を言います。「社員は家族も同然……なんて、綺麗事はいわない」「でもね……一緒に働く仲間に甘えるくらい、したっていいんだよ」
法人をひとつの「家」と見なす日本的な風潮には、さまざまな議論があります。この作品においても、片山製作所や農業法人「あぐもぐ」を、家父長が仕切る疑似家族と見なすことも、あるいは可能かもしれません。

しかしながら、「あぐもぐ」の安岡茂樹は、決してワンマン社長ではなく、無農薬農業に挑戦したいと挫折を繰り返す若い社員を長い目で見守ってやるだけの、寛容さを備えたキャラクターとして描かれています。丹念な取材に裏打ちされているからでしょう、単なる「日本凄い」的なモノ作り、コメ作り礼讃に堕していないのです。

この小説でも大きなモチーフとなった3・11から10年近くたちました。コロナ禍によるテレワーク推進や、増える一方の外国人技能実習生など、日本の法人そのものが、変化を余儀なくされている時代です。そこで働く者が「幸せ」すなわち社会に役立っているという実感を味わえる場を数多く作る。その一つのカギは、やはり「多様性」。就農することで女性が成長するだけでなく、女性(や外国人)が参加することで、農業の在り方じたいが変わっていく。そんなお話も可能でしょうし、読んでみたい気がします。(敬称略)

福岡貴善

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最近、長野県松本市に引っ越してきたフリーランス・ライターです。20年以上の出版社勤務経験を活かし、大好きな映画、小説、音楽など様々なテーマに絡めて「農」を考...

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