韓国映画『彼とわたしの漂流日記』が描いた「農業の誕生」

ライターズコラム

今回ご紹介するのは、2009年に公開された韓国映画『彼とわたしの漂流日記』(イ・ヘジュン監督)。低予算の小品ながら、さまざまな切り口から深堀りできる現代社会への批評をちりばめつつ、肩の力を抜いて見られる、いっぷう変わったラブコメ・エンタメ作品です。

主人公は、消費者ローンで莫大な借金を抱えた挙句、恋人にも愛想をつかされ捨てられた、キム氏。自暴自棄となって、ソウル市内を流れる大河・漢江(ハンガン)に身投げしますが、中洲にある栗島(パムソム)という無人島に漂着し、生きながらえてしまいます。

この栗島は、かつて70世帯440人ほどの住民が暮らしていましたが、1968年に洪水対策の名目で爆破され消滅しました。ところがその跡地に砂が堆積し、再び小島として蘇りました。
今は、飛来する渡り鳥など生態系保護のため、立ち入り禁止区域に指定されています。しかも大橋の真下にあるため、周囲から死角になっている。いわば大都市ソウルのど真ん中にある、文字通りの「孤島」なのです。

そんな孤島で息を吹き返したキム氏、まずは携帯電話で外部と連絡を取ろうとしますが、すぐに電池切れ。川を泳いで脱出しようにも、キム氏は金槌。
漂流生活を余儀なくされたキム氏。まずは食料を確保しなければなりません。川魚を取ろうと木の枝で作った銛を使って奮闘しますが、空振り。仕方なく島に生えているキノコや花の蜜で飢えを凌いでも限界はある。

このまま飢え死にかと思われたキム氏でしたが、思わぬことから問題は解決します。ある朝、流れてきた洗剤で頭を洗っていると、そのせいで魚の死骸が浮かび上がったのです。さらに翌朝、その魚の死骸を食べて死んでしまった鳥が浮いているのを発見。

飢え死にを免れたキム氏、流れ着いたアヒルのボートをねぐらにしたり、ペットボトルでサンダルをこしらえたりと、「文明の残滓」であるゴミによって、それなりに生活基盤を整えます。
そうなると、借金取りにも追われず、面倒くさい人間関係からも解放され、なかなか楽しい漂流ライフをエンジョイしはじめたキム氏でした。

この映画のもう1人の主人公は、漢江沿岸のマンションに閉じこもったまま、天台望遠鏡でキム氏を観察する、自称「健全なひきこもり」の女性キムさん。

毎朝決まった時間に起床し、朝食はトウモロコシの缶詰、昼食はインスタントラーメンの乾麺。摂ったカロリー分は万歩計を腰にあてて部屋のなかをウォーキングし、スリムな体型を維持。あとは会員登録したショッピングサイトを巡回し「ティファニーで靴を買った」と充実した「人生」をSNSのフォロワーたちに報告して称賛を得(当然、嘘)、毎晩9時には就寝する。

そんな規則正しい「引きこもり生活」をエンジョイできるのは、同居している母親のクレジットカードを自由に使えるからです。男性キム氏が、ゴミという現代社会の「恩恵」を受けて無人島での生活を送れているように、女性キムさんもまた、クレジットカードやインターネットという文明の利器に保護された、「現代の漂流民」というわけですね。

そんな女性キムさんの唯一の趣味は、夜になってからカーテンを少しだけ開け、望遠レンズつきデジカメで月の写真を撮影する事。自分を脅かす他者の存在しない世界を観察している最中、偶然、栗島で暮らす男性キム氏を発見する。
そして、ともに「都会の孤島」で独り暮らしをする、2人のキムの、奇妙な交流が始まるというわけです(ちなみに映画の原題は『キムさん漂流記』)。

ある日、男性キム氏は、流れ着いたインスタント・ジャージャー麺の袋を拾いました。乾麺はなくなっていましたが、幸い、粉末ソースが開封されずに残っていた。
ジャージャー麺といえば、韓国人は大人も子供も、誰もが好む大衆食。なんとかもう一度、あの懐かしい味にありつきたいと、いてもたってもいられなくなる男性キム氏。

韓国のジャージャー麺

まず手に入れるべきは麺。麺は何から作るか。穀物です。穀物はどうやって手にれるか。種を植え、稔るまで育てるしかありません。

かくして、キム氏は、農業にチャレンジするわけです。

とあるきっかけ(具体的に何かは、作品をごらんください)で、地面に植物が芽吹きはじめたのに気づいた男性キム氏。そこからヒントを得て、土を耕して畑を作り、種を植える。やがて芽を出し、育ち始めた穀物を、雨や風から守って大事に育てていく。

もちろん、元サラリーマンゆえに、初めての農業は順調には進まず、挫折を重ねる男性キム氏。見かねた女性キムさんは、料理屋に電話をかけ、栗島までの出前を注文します(韓国では、屋外のどこでも場所を指定すれば出前を頼むことができるのです)。
しかし男性キム氏は、運ばれてきたジャージャー麺を、女性キムさんに送り返す。彼女からの贈り物を受け取るのは、やっと見出した「生きがい」を中断する事に他ならないからです。

やがて収穫の時を迎えます。穀物を粉にして伸ばし、お湯を沸かし、茹で上がったジャージャー麺に粉末ソースをふりかけ、涙をこぼしながら麺をすする男性キム氏。それはあたかも、人類が農業を発明し、火を使って収穫物を調理し、料理へと発展させた過程を辿っていくかのような、人類史的視点すら感じさせるシークエンスです。

この映画はある意味、『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』といった“漂流もの”の系譜をつぐ作品と言えます。それらの古典的名作では、主人公が流れ着いた(西洋人から見た)未開の地に文明を築いていく物語でした。西洋の植民地支配を文明の名の許に正当化とも言えます。

その後、文明国であるはずの国同士が、おびただしい死者を出した二つの世界大変を経た20世紀後半、そうした無邪気な物語は否定されました。
たとえば『十五少年漂流記』の悪意あるパロディである小説『蠅の王』や、映画『地獄の黙示録』(1979年)のように、文明人であるはずの西洋人が、未開の地で野蛮な本性を剥きだしに、暴力で支配と服従の関係を築く物語が作られました。

そして21世紀に入って作られた『彼とわたしの漂流日記』において、主人公たちは文明社会から離れるのではなく、より文明に奥深く籠ることで、自分を脅かす他者から切り離された、安心して孤立できる環境を得られたわけです。

しかし、川に流されたゴミや、親のクレジットカードに支えられた安住の地が、いつまでも長持ちするわけはありません。映画はこの後、男女のキムたちは、それぞれの「漂流生活」を剥奪されます。自然災害だったり、いわゆるネットでの炎上であったり。

しかし、その事によって2人の漂流民は、自らを覆っていた硬い殻からの脱皮を余儀なくされ、生身の人間として互いに向き合う事になる。そこに、この映画の作り手たちのメッセージが込められているのです。

まず、一歩踏み出そう。地に足をつけて、歩き続けよう。そこにしか希望はない、と。

ストレスに満ちた現代社会。誰だって逃げ出したい。それは21世紀の今日だけでなく、『ロビンソン・クルーソー』の時代から、人間は「ここではない、どこか」へ逃げ出したかった。その願望が、数多くの“漂流もの”を生み出したのかもしれません。

競争社会の「負け組」は何に希望を見出すべきか。それは、ここ十数年の韓国映画の一大テーマでした(その追求は、今年2月の『パラサイト 半地下の家族』の米アカデミー賞4部門制覇に結実しました)。この映画も、そうした作品の一つなのです。

福岡貴善

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最近、長野県松本市に引っ越してきたフリーランス・ライターです。20年以上の出版社勤務経験を活かし、大好きな映画、小説、音楽など様々なテーマに絡めて「農」を考...

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