「七人の侍」で描かれた農業〜その2〜

ライターズコラム

③脚本家・橋本忍の「農民観」/『七人の侍』と『八つ墓村』

『七人の侍』における農民の描き方が、しばしば批判の対象になったのは、弱い農民たちが集団になった時に見せる恐ろしさも、容赦なく見せているからだと思われます。
生け捕りになって命乞いをする野武士を、鋤や鍬を手にした農民たちが取り囲む場面です。侍たちがいくら宥めても止めることはできず、農民たちは、野武士に家族を皆殺しにされた老女に鍬をもたせ、血祭りに上げるのです。
この凄惨な描写については、黒澤明よりも、むしろ脚本を書いた橋本忍の「農民観」が色濃く出ているようです。

2018年に亡くなった脚本家の橋本忍は、ベネチア映画祭でグランプリを受賞した『羅生門』でデビュー、『生きる』や『七人の侍』などで黒澤組のメインライターとして活躍しました。他にも『日本のいちばん長い日』(1967年)、『日本沈没』(73年)、『八甲田山』(77年)といったヒット作を飛ばした、日本映画界きっての名脚本家でした。
『七人の侍』は、クレジット上では黒澤明・小国英雄・橋本忍の3人の共同脚本となっていますが、実質的には橋本忍が全体を書きあげ、黒澤や小国はチェック役だったようです(村井厚志『脚本家・橋本忍の世界』集英社新書)。

その橋本忍が手がけた作品に、いわゆる金田一耕助シリーズの映画化『八つ墓村』があります。原作者の横溝正史が得意とした、山深い僻村を舞台に、戦国時代に起こった凄惨な出来事と、数百年後の現代に起こった奇怪な連続殺人事件との因縁が描かれ、1977年の公開当時、テレビCMの「祟りじゃ~」が流行語になったほど、ブームを起こしました。

舞台となるのは岡山県の山奥にある、八つ墓村と呼ばれる農村。戦国時代、毛利との戦に敗れ、この地に逃れてきた8人の落ち武者を、村人たちが報奨金ほしさに騙して村祭りに招き、よってたかって殺害します。落ち武者のリーダー尼子義孝(夏八木勲)は「末代まで祟ってやる」と呪いの言葉を残して憤死。その直後、騙し討ちを主謀した村の総代・多治見庄右衛門が突然おかしくなり、村人7人を殺害して自殺するという事件が起こった。

そこで村人たちは、落ち武者8人を村はずれに丁重に葬った事から、八つ墓村と呼ばれるようになったわけです。しかし、落ち武者たちの祟りは、鎮まりませんでした。

そして現代。多治見家の当主が危篤状態に陥ったため、ただひとり同家の血を引く寺田辰弥(萩原健一)という青年が東京から八つ墓村に呼ばれました。辰弥は、先代当主・多治見要蔵(山崎努)が、村の一女性を無理強いして生ませた子で、女性は幼い辰弥を抱いて村を出奔、おかしくなった要蔵は、日本刀と猟銃で村人32人を殺害したのです(1938〈昭和13〉年に起こった、津山三十人殺しと呼ばれる事件がモデル)。
物語は、寺田辰弥の訪れと同時に、次々と殺人事件が多発し、事件の謎解きと同時に、辰弥の出生の秘密が明らかになるという展開です。

先日、久しぶりに見返してみて、思わず声をあげた場面が2つありました。一つは映画の前半、辰弥が久しぶりに八つ墓村を訪れ、山の上から村を見下ろすシーン。もう一つは、血みどろの落ち武者たちが八つ墓村に辿り着き、同じ場所から見下した時の並び方。いずれも『七人の侍』で侍たちが初めて村にやってきた時と、ほぼ同じ構図だったからです。

豪快なアクション時代劇『七人の侍』と、おどろおどろしいミステリー『八つ墓村』はジャンルこそ違いますが、都市から農村に来た者が主人公という点で共通しています。
何より、『八つ墓村』の物語の発端となる「落ち武者狩り」は、『七人の侍』でも大きな役割を果たしています。①の冒頭に引用した菊千代(三船敏郎)の「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ!」がそれです。

百姓あがりの菊千代は、村人たちが隠し持っていた、落ち武者狩りで奪った甲冑や武器を発見し、手柄顔で他の侍たちに披露します。しかし侍たちは、それらの武器を喜ぶどころか、かえって激怒し、剣豪の久造(宮口精二)に至っては「この村の連中を斬りたくなった」と呟き、いつも冷静なリーダーの勘兵衛(志村喬)も、「落ち武者になって竹槍に追われた者でなければ、この気持は分からん」と憤りを隠しません。
自分たちと同じ武士を殺害するような農民たちを守ってやる意味があるのか。懐疑にとらわれた侍たちに対して、菊千代が放った「反論」が「そんなけだもの作りやがったのは、いったい誰だ? おめえたちだよ、侍だってんだよ!」だったのです。

『七人の侍』には、落ち武者狩りの場面はありません。しかし、『八つ墓村』では、落ち武者たちの惨殺シーンが、時間をかけて描かれました。殺害される落ち武者の1人が、『七人の侍』で副リーダー的な片山五郎兵衛を演じた稲葉義男というキャスティングも、偶然とは思えません。

橋本忍の「落ち武者狩り」へのこだわりは、時代劇研究家の春日太一さんが指摘されたように(『町山智浩・春日太一の日本映画講義 時代劇編』河出新書)、幼い頃に祖母から聞かされた「播但一揆」についての記憶に依るところが大きいようです。
「播但一揆」とは、橋本忍の生まれ故郷である現在の兵庫県と岡山県の一部(当時は姫路県と生野県)で1871(明治4)年に起こった、数千人の農民が参加した大規模な暴動です。その際に、暴徒を宥めるために派遣された役人2名が、大勢の農民に取り囲まれ、竹槍と鉄砲で殺害されました(竹槍と鉄砲は、『七人の侍』でシンボリックに使われる武器です)。

幼い橋本忍の脳裡に刻まれた、ひとたび火がつけば「暴徒」と化す農民のイメージは、『七人の侍』においては台詞として言及されるだけで、具体的な描写はありませんでした。橋本はいわば『七人の侍』で十分に描けなかった「落ち武者狩り」に象徴される農民たちの残忍さを、20数年後に『八つ墓村』で思う存分、書いたということになるわけです。

ふだんは無力な民衆が、「暴徒」として思わぬ残忍さを発揮するのは、日本の農民に限りません。世界中におびただしい例があります。橋本忍は1974年公開の映画『砂の器』(野村芳太郎監督)で、巡礼として各地を漂泊するハンセン病患者・本浦千代松(加藤嘉)とその息子が村々で迫害される、松本清張の原作にはないシーンを延々と描きました。
芥川也寸志の荘厳な音楽の流れるなか、美しいカメラワークで描き出された日本の大自然のなかを、ぽつんとさまよう千代松親子の姿は、ひょっとしたら野武士に村を焼かれて、「他の村人達の白い眼」にさらされながら流浪するしかなかった、『七人の侍』の農民たちの姿なのかもしれません(②参照)。
彼らもまた、「落ち武者」と同じ境遇だったのです。そして彼等は侍の力を借りながら、野武士を撃退し、勝利者として大地に根を張る事に成功したと言えるのではないでしょうか。

④人間を自立させる「農」/『わが青春に悔いなし』のヒロイン像

『七人の侍』は、「勝ったのは、あの百姓たちだ。わしたちではない」という侍のリーダー勘兵衛(志村喬)の台詞で締めくくられます。シナリオにはさらに続きがありました。

「侍はな……この風のように、この大地を吹き捲って、通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」

この部分は、ハリウッドの作り手たちによって踏襲されます。ジョン・スタージェス監督によるリメイク作『荒野の七人』(1960年)では、この台詞は侍にあたるガンマンではなく、村の長老の「あなた方は強い風のように盗賊たちを追い払ってくれた。私たち農民は大地に生きる」という感謝の言葉に置き換えられました。そしてガンマンの1人は、村に残って好きなった娘と暮らす道を選ぶのです。
大の黒澤ファンだったジョン・ミリアス監督作『風とライオン』(75年)では、モロッコ支配を企むアメリカのルーズベルト大統領に対し、抵抗する地元の族長ライズリ(ショーン・コネリー)はこんな書簡を送ります。「あなたがたアメリカ人は風だ。いずれ去っていく。私たちはライオンのように、この地に留まり続ける」。いずれの作品でも、大地に根ざして生きる者たちを称賛する演出になっています。

しかし、本家である『七人の侍』は違います。
この作品の侍たちは、主君や御家のためなら身を犠牲にしても厭わない『葉隠れ』に描かれたような観念論的存在ではなく、勝利を導くために必要な手段を考え抜く、合理的思考の持ち主です。仕えていた主君が滅びても殉じたりはせず、生き延びて次に雇ってくれる者を探すだけです。自分を殺して組織の歯車になるのではなく、鍛えられたスキルの持ち主として、自ら選んだプロジェクト(例えば野武士から村を守る)に参加する。そういう真の意味での独立した心を持つ強者こそが、黒澤が憧れたサムライでした。
そして黒澤は、最後の台詞をカットする事によって、「個」として生きる者が、大地に根ざした「集団」である農民たちに負けて去っていく苦い物語に仕上げたような印象を、観る者に与えたのです。

では、自立した「個」は、風のように漂泊するしかないのか。自分の個性や信念を曲げることなく、大地に留まることはできないのか。
その可能性を探った作品を、黒澤明は『七人の侍』の8年前、終戦直後の1946年に発表しています。原節子主演の『わが青春に悔いなし』です。

黒澤は『わが青春に悔いなし』について、「日本が新しく立直るのに大切なのは自我を尊重することだと信じてた。今でも信じている。そういう自我を貫いた女を僕は描いたんだ」と語っています(『世界の映画作家3 黒沢明』1970年、キネマ旬報社)。

この映画のヒロインは、京都帝国大学教授の娘・八木原幸枝(原節子)。何不自由なく育った彼女は、何かをしたいという欲求に突き動かされつつ、しかし何をすればよいのか分からず、しばしばイライラして周囲に当たり散らす、わがままな令嬢です。
やがて彼女は、父の教え子であり、左翼運動に従事して投獄された経験を持つ野毛(藤田進)を追って東京に行き、秘密活動を続けている彼の内妻となります。恋しい男との生活に、彼女は打って変わって従順で可愛らしい奥さんになりますが、夫の活動に参加するわけではなく、やはりどこかに不満を抱え続けている。2人で喜劇映画を観ている時も、屈託なく笑う野毛に、わっと泣き出したりするなど、理解できない突飛な行動がしばしば。
その野毛が、スパイ容疑で検挙され、幸枝も連座して投獄されます。やがて太平洋戦争勃発。幸枝は釈放されますが、野毛は獄中で死亡。幸枝は、野毛の遺骨を抱いて、彼の生まれ故郷である農村に赴きます。しかし野毛の実家は、非国民を生んだ家として村八分状態。野毛の両親は外を出歩くことも憚り、田畑は荒れ果てていました。
幸枝は、農作業を手伝いたいと申し出ます。都会育ちに辛い農業が耐えられるはずがない、それに今この家はスパイ呼ばわりされているのだから、と渋る野毛の母(杉村春子)を説得し、野良着をまとって駕籠を背負い、農具を手に田を耕しはじめるのです。そんな幸枝を村人たちは冷たい眼で見つめ、せっかく芽を出した苗を引き抜かれるなど、ひどい邪魔さえする。それでも幸枝は、諦めずに苗を植え直し、黙々と農作業を続ける。
やがて戦争が終わると、幸枝はいつの間にか「農村文化運動の指導者」として、村じゅうの尊敬を集める存在とになりました。戦いの果てに彼女は、自立を果たしたのです。

農村を舞台とした黒澤映画に、晩年の作品である『八月の狂詩曲』(1991年)があります。長崎の原爆で夫を亡くして以来、小学校の先生として独身を貫き、今は1人、山奥の古びた家で、静かに畑仕事を続ける老女(村瀬幸子)が主人公。ある夏、彼女は東京からやってきた4人の孫たちや、アメリカから訪れた甥(リチャード・ギア)と触れあううち、遠い昔の記憶が呼び覚まされます。
クライマックスの嵐の夕方、不意の稲妻に「ピカが来た」と叫んで外に飛び出します。その様子はシナリオでは、こう書かれています。

「雨にたたかれ、風に飛ばされ、右に左へとよろめいて、前へ進もうともがいていた」

戦争や核兵器という世界の不条理に対峙するように、傘を手に豪雨に立ち向かう老女の姿は、あたかも村じゅうに白眼視され、倒れそうになりながら田を耕しつづけた『わが青春に悔いなし』のヒロインと重ねられます。
映画は公開当時、アメリカのメディアによって「反核」「反米」といった要素が批判され、その部分が不必要にクローズアップされたきらいがあります。しかし、『わが青春に悔いなし』という補助線を引くことによって、「大地に根ざしながらも、世界との戦いをやめなかった、決して屈することのない女性」という、黒澤明が終戦後に夢見た、ひとつの「理想像」を提示した作品として再評価されるべきではないでしょうか。

そうした女性像の原点になったのは、黒澤明が自伝で述べた、中学三年生の時に過ごした父の故郷・秋田県での思い出だと思います(①参照)。
黒澤の父は、武家の出(士族)でした。秋田の大曲に、富樫という家(歌舞伎の『勧進帳』で有名な関守の子孫)に嫁いだ、父の姉がいて、黒澤少年はしばしばその家を訪れ、「まことに凛然」として「あたりを払う威厳」に溢れる立ち居振る舞いに強い印象を受けました。
しばしばその作風が男性的とされる黒澤明の、別の一面を示すエピソードです。

福岡貴善

2,020 views

最近、長野県松本市に引っ越してきたフリーランス・ライターです。20年以上の出版社勤務経験を活かし、大好きな映画、小説、音楽など様々なテーマに絡めて「農」を考...

プロフィール

ピックアップ記事

関連記事一覧

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。