「七人の侍」で描かれた農業〜その1〜

ライターズコラム

①黒澤明が描いたユートピア/安曇野でロケした『夢』

世界的な映画監督・黒澤明の晩年の作品に『夢』(1990年)があります。「こんな夢をみた」という字幕で始まる八つのエピソードで構成されたオムニバスです。
最後のエピソードは「水車のある村」と名づけられました。旅する主人公の「私」(寺尾聰)は、ある夜に見た夢で「綺麗な小川が流れている両岸に、たがいちがいに水車小屋があり、水車がくるくる回っている」「色様々の野の花が咲いて」いる「お伽の国」のような村を訪れます。

電気も引かれておらず、昔ながらの牛馬を使って田を耕し、「昔の様に、自然な暮らし方」をしている村。そこで出会った老人(笠智衆)は「私」に、こう言います。「まず人間に一番大切なものは、いい空気やきれいな水、それをつくり出す木や草」なのだ、と。

『夢』という作品の前半は、幼少期に出会った狐の嫁入りやお雛様の幻影、いたましい戦争のトラウマ、若き日のゴッホへの憧れ(黒澤明は画家志望でした)など、監督の前半生の思い出が込められたエピソードが綴られますが、後半がらりと趣が変わります。原発事故の恐怖を描いた「赤富士」、核戦争後の荒野をさまよう鬼と化した人と出会う「鬼哭」と、黒澤が現代社会に抱く不安を映像化した悪夢の後に続くのが、「水車のある村」のエピソードなのです。

この村の場面は、安曇市の「大王わさび農園」で撮影されました。今でも撮影に使われた水車が残っていますが、これは美術スタッフが撮影用に作ったもので、元々はなかったのだそうです。数々の名作を世に送り出してきた巨匠・黒澤明は、人生の最晩年に辿り着いた究極の「夢」を描くに相応しい場所として、安曇野の自然を選んだわけです。

黒澤明は、エンターテインメント性溢れるアクション映画の作り手として、世界の映画に多大な影響を与えました。1954年の『七人の侍』は、ハリウッドでも2度にわたってリメイクされました(1960年の『荒野の七人』、2016年の『マグニフィセント・セブン』)。1962年の『用心棒』のストーリーをなぞったマカロニ・ウェスタンの傑作で、先だって亡くなったエンニオ・モリコーネのテーマ曲でも知られる『荒野の用心棒』(1964年)で、主演のクリント・イーストウッドは世界的な大スターとなりました。とある映画祭で三船敏郎と出会ったイーストウッドは、『用心棒』のおかげで今の私がある、と感謝したそうです。

一方、黒澤明が生涯こだわったテーマに「農」があると、私は思っています。そう考えるきっかけとなったのは、あるラジオ番組で、料理研究家の福田里香さんが語った『七人の侍』を「食」をテーマに分析した評論でした(TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」2009年10月31日)。福田さんはその番組で、『七人の侍』の物語そのものが、農作業のサイクルに則って展開していると指摘されたのです。

ご存知のとおり、『七人の侍』は、野武士の襲撃に怯える戦国時代の農民たちが、村を守るために七人の浪人侍を、腹いっぱい米の飯を食わせるという条件で雇うという話です。
映画の冒頭、馬に乗って現れた野武士たちが村を見下ろし、「去年の暮れ、米をかっさらったばかりだ。今行っても、何もあるめえ」「麦が実ったら、また来るべえ」とわめきあって駈け去っていく。秋に植えて春に収穫する麦が、そろそろ実る時期だと示しているのです。

野武士たちの意図を知った農民たちは、長老の決断で侍を雇うことにし、浪人が集まる宿場町に出かけますが、なかなか承知してもらえる侍が見付からない。宿の外に生えている麦を見て「実っちまっただ」と焦るシーンがあるなど、穀物の成長がタイム・サスペンスになっているわけですね。

紆余曲折があって村に雇われた侍たちは、農民に竹槍の訓練をほどこす一方、麦の刈り入れが終わると、田に水を引き、村全体を要塞化する。そして物語のクライマックスは土砂降りの雨のなかの戦いで、季節が梅雨になった事が示され、最後は田植えで終わる。

そのあたりを意識して映画を見ると、確かにこの作品では、戦国時代の農村生活や農作業のディテールが描き込まれている事に気づかされます。例えば、侍たちが泊まっている独り者の百姓家では、足で踏んで杵を上下させ、人力で米をついて精米しますが、村の長老が住む家は水車小屋で、川の流れ(水力)を利用して精米する。村におけるポジションの差が、そういう形で描かれている。
ところで、黒澤の最高傑作と言われる『七人の侍』が、晩年の『夢』の最後のエピソードと同様、「水車のある村」を舞台にしているのは、何を暗示しているのでしょう。

黒澤明が1984年に刊行した自伝『蝦蟇の油』(岩波現代文庫)に、こんなエピソードがあります。ひ弱で、運動が得意でなかった黒澤少年は、学校でもしばしばいじめにあっていました。黒澤少年が中学三年生の夏、父親は息子を自分の生れ故郷である秋田県豊川村(現、潟上市)の親類の家に預けました。その家の庭には「綺麗な曲水」があり、「流れは水屋(台所)の中を通り抜けて、街道の小川まで続いていた」。その川で黒澤少年は魚を捕まえたりして、一夏を過ごしたのです。「風光明媚というわけではないが、平凡だが素朴な美しさに溢れ」るその村を、黒澤明は自伝で懐かしく振り返るとともに、後年「無惨に変り果てた」その地を訪れ、このように嘆いています。

「村の街道を美しい水草を浮かべて流れていた小川の中には、今、茶碗や皿やビール瓶のかけらや、ブリキの空缶や、地下足袋やゴム長靴まで捨てられている」
また、ある「百姓家」を訊ねた黒澤少年は、その家の住人が野草に味噌をつけ、貝殻で焼いたのを肴にお酒を呑みながら、「こんなあばや家さ住んで、こんだものを喰べて、なにが面白いと思うべども、生きてるつうことは、なんとも、面白いもんだな」

多感な十代の半ばに、「驚くほど純朴で、哀しいほどのどか」な村で過ごした経験は、黒澤作品を形づくる上で、大きな原風景となっているように感じられます。

1949年に監督した『酔いどれ天使』では、肺を病んで自暴自棄になった闇市のヤクザ者(三船敏郎)に、彼を慕う飲み屋の女(千石規子)が、自分の故郷に来ないか、と誘う場面があります。
「あたしも、くにに帰ろうかと思ってんのさ。こんなとこ、つくづくイヤになったんだよ。ねえ、あたしと一緒においでよ。ちっぽけな町だけど、道のまんなかを、きれいな水が流れてるんだよ」

もっとも黒澤は、実際に農村を舞台とした映画では、のどかな風景の裏側にある「現実」から眼を背けず、時に容赦なくダークな部分を描くことも忘れませんでした。それについては別の機会に述べたいと思います。

②『七人の侍』は、「百姓」を蔑んだ作品なのか?

黒澤明の映画で、農村を舞台とした作品といえば、なんといっても『七人の侍』(1954年)でしょう。通常の7倍もの予算(2億1千万円)、1年余の製作日数をかけた207分の、当時としては破格の超大作は、ハリウッドで2度リメイクされただけでなく、ヨーロッパや中国でもインスパイアされた作品が作られ、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で第1位に選ばれるなど、世界的にも大きな影響を与えました。
『七人の侍』の舞台となった農村は、村の真ん中を小川が流れ、水車小屋が常に音を響かせているなど、黒澤が思春期時代に経験した「理想郷」そのものです(①参照)。
しかし、この作品での農村や、そこに生きる農民の描かれ方は、実は公開当時、大きな反撥を受けました。

「やい、てめえたち、百姓をなんだと思ってたんだ? 仏様とでも思っていたか? 笑わせちゃいけねえや。百姓くらい悪擦れした生き物はねえんだぜ!」
「米出せって言っちゃ、無え。麦出せって言っちゃ、無え。何もかも無えと抜かす。ところが、あるんだ」「出てくる、出てくる。壺に入った米、塩、豆、酒!」「正直づらして、ぺこぺこ頭をさげて、嘘をつく。なんでもごまかす。戦が始まりゃ、すぐ竹槍つくって落ち武者狩りだい!」「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ!」

黒澤明監督『七人の侍』の、三船敏郎演じる農民出身の自称サムライ・菊千代の台詞です。実際、この映画に登場する農民たちは、好感を抱くにくい面があからさまに描かれています。例えば、侍たちが農村にやってくると、農民たちは異常によそ者である侍を警戒し、歓迎して出迎えるどころか、家に籠もって出てこない。ところが、機転をきかした菊千代が、野武士襲来を知らせる合図の木を乱打すると、「お侍さまぁ!」「お侍さまぁ!」と、泣き叫びながら飛び出してきて、助けを求める始末。

対して侍たちは、冷静かつ果断な理想的リーダー勘兵衛(志村喬)、温厚なよき相談役の五郎兵衛(稲葉義男)、ユーモアを忘れず場を盛り上げる平八(千秋実)、ストイックな剣豪の久蔵(宮口精二)、末端の足軽として戦場を知り尽くし農民たちを的確に指導する七郎次(加東大介)と、いずれも百戦錬磨。未熟だが真面目な初々しい若武者・勝四郎(木村功)や、ジョーカー的存在として侍と農民の橋渡し役となる菊千代(三船敏郎)を含め、それぞれがもてる技量を活かしてミッション遂行に貢献する、自立したプロフェッショナルとして描かれます。

封切り当時、この映画を見た24歳の新進映画評論家はこんな文章を書いています(佐藤忠男『黒沢明の世界』1969年、三一書房)。
「七人の侍たちに対しては、あれほど一人一人こまかく性格を描き分けている作者が、この百姓たちは殆ど全くモッブとして、殆ど全部を共通の一つの性格として描いてすませている。彼等は卑屈であり、狡猾であり、臆病であり、時として残忍であり、どやしつけて笑いものにする必要があるくらい鈍重であり、どやしつけて命令しなければどんな小さな組織もつくれないくらいぐずで利己的で愚痴っぽい」

黒澤はしばしば、弱者への共感が乏しいという批判をされます。例えば警察ドラマ『野良犬』(49年)や『天国と地獄』(63年)では、事件を追う刑事が好意的に描かれる一方、貧しさから犯罪に走った犯人には、冷たく突き放した視点が目立ちます。その図式は『七人の侍』にも当てはまるのでしょうか。

実は、『七人の侍』に登場する農民たちは「殆ど全部を共通の一つの性格として描いてすませている」どころか、考え抜かれた細かな設定がされていた事が、現在では明らかになっています。2010年、黒澤明が『七人の侍』の構想を記した、6冊の大学ノートが公刊されました(『黒澤明「七人の侍」創作ノート』文藝春秋)。そこには、たとえば侍のリーダーである島田勘兵衛(志村喬)については、こんな具合です。

「そろそろ五十に手がとどく」「白髪が大分見える。若い頃の夢も情熱も枯れかかって、どこかで静かに生活したくなっている」「不運な男である。合戦には随分出たが、みな敗戦ばかりであった」「過去の苦しい経験が彼から圭角をとった。自然な考え深い、円満な人柄をねり上げている」

侍だけでなく、主要な農民たちの設定も、細かく書かれました。侍を雇って戦おうという声に対し「百姓は我慢するしか、ねえだよ」と反対し、娘が侍と恋仲になるのを恐れ無理に髪を切って男装させ村を不安に陥れる等、自分の事しか考えない男と村人から非難される万造という農民(藤原釜足)について、6ページにわたってこう書かれました。

「なかなか思慮深い。政治力もある。風格はないが、相当な重みもある。そして、それは村の者の間だけでしか見せない。それ以外の者の前では大変頭が低い。しかし、頭はいくらペコペコさげても腰は痛まぬ、と云う不逞な感じがどこかすけて見える。狡い……と感じさせる。しかし、狡く立廻らなければ、やって行けない立場なのだ」
「彼は、本能的に侍を憎んでいる。子供の時、その生家を焼き打ちにされて、阿鼻叫喚の中を母の背に負われて逃げ延びた時の事が頭に焼きついている」

そもそもこの村は、一般的な農村ではありませんでした。
「この村の人々は、五十年前どこからか戦禍を逃れて来た人々なのである。その時分、戦の渦中から遠くはなれていたこの山間に根をおろすと、周囲の村人達の白い眼をしのんで、営々とこの荒れ地をたがやして、今日の美田をつくったのだ」。だから、「変に小さくこり固って、よく云えば団結心が強いとも云えるが、悪く云えば他の村との附合も悪く、変に依怙地な性分である」
だから、百姓を「悪擦れした生き者」と罵った菊千代は、続けてこんな悲痛な叫びを、侍たちに浴びせるのです。
「だがな、そんなけだもの作りやがったのは、いったい誰だ? おめえたちだよ、侍だってんだよ!」「戦の時には、村は焼く、田畑は踏ん潰す」「百姓はどうすりゃいいんだ!」

創作ノートでは、主要な農民の1人・茂助(小杉義男)について、「一徹者」で「刀をさしてない久蔵」と、侍のなかでも随一の剣豪になぞらえられています。武芸一途の無口な久蔵が、茂助の鎌を見つめ、自分の腰にさしてある刀との違いを考え込む場面も撮影されたそうです(残念なことに最終的にカット)。黒澤明が、高潔な侍と卑屈な農民という図式で、この映画を作っていないことは明らかなのです。

福岡貴善

519 views

最近、長野県松本市に引っ越してきたフリーランス・ライターです。20年以上の出版社勤務経験を活かし、大好きな映画、小説、音楽など様々なテーマに絡めて「農」を考...

プロフィール

ピックアップ記事

関連記事一覧

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。